植芝盛平翁先生の逸話

植芝盛平翁先生が和歌山市中之島道場で、滞在中戯れに私に話して下さった断片的な逸話を書いて置きましょう。

■翁先生は子供の頃から武道が好きであったようです。青栗の実を友達に投げさせて体を躱して遊んだことをよく語ってくれました。北海道時代の「力」をお尋ねすると生木を引き抜いたり青竹を脇の下で割ったり、馬を足で締め倒した事を懐かしげに話して下さいました。


■大東流の武田惣角先生が不覚を取った時のお話しをして諭して下さった事があります。
それは惣角先生が土方の連中と喧嘩をした時堤防の下で闘った為、持篭を堤防の上から放り投げられ、持篭が身体に絡んで大敗北をしたという。 闘う時は高い所へ逃げながら闘う事であると口伝して下さいました。

■田辺時代のお話で、翁先生が普通の野良仕事では気が済まず麦刈りをして帰る途中、村長と警察官に出会い二人が翁先生の大きな荷物で通れず、おいおいと声を掛けられたので、荷物担いだまま先生が振り向いた途端、二人が下の田に落ちていたとお笑いになっていました。

■秋芋堀りをして芋の蔓を刈り取って帰る途中、演習帰りの軍隊に出会い一人の兵士が青覚めて走って来て将校の足に芋の蔓が引っ掛かり引き摺られていたのを知らなかったという剛毅なお話もお聞きしました。

■神秘的なお話もして下さいました。
従兄弟と二人で田辺から新宮へ行く途中闇夜で一寸先が見えないので、従兄弟が「盛平、先に行ってくれ」と言われたので「よし」と言って行こうとしたところ、俄に明るく成り、「ああ道案内が来て下さったから行きなさい」と言って、峠を越す辺りで東が白む頃「明かりにご苦労様」と翁先生が言うと、風音を残し熊野三山の方へ帰ったそうです。

   
■綾部での神秘なお話では、翁先生が本宮から山麓の一軒家に帰る時は、何時も風もないのに、笹の葉の音がし、この音で奥様が戸締まりを開けて待っていたと言う。

■大本教本殿の棟木の大木を牛に引かせ人も後ろから押しながら、山の上に運ぶ途中翁先生に出会い「植芝さん此の大木を動かせますか」と言われ引き上げたと言うのを私が書物で拝読したのですがとお伺いすると先生は「木を見ていると身体が熱くなってきて小さい木に見えて来たから枝を持って動かすと動いたから引き上げた」と話して下さいました。

■何年頃かお伺いするのを忘れましたが、嘉納治五郎先生から書面を付けてこの外人を「このまま帰す事が講道館の名に関る為、宜しく」との事であった。 翁先生は、高弟に稽古を付けさすと色々技を考え失敗するかもわからないから、庭掃除をさせていた一番新しい門人に「お前が相手をしろ技は此の技で失敗すれば命が無いかもしれん」と言って相手をさせたそうです。
外人は立派な体格でしたが門人は命掛けだから勝ったそうです。終わって外人が帰ろうとした時、翁先生が「待ちなさい貴方はスパイですね」と言って見破った事を話して下さった。

■蒙古へ行った時、中国で名高い走りの速い人が、何かの理由で取り調べ中逃げたので翁先生に捕らえる様頼まれ長時間追跡して捕らえ、軍隊に渡す際此の方は名高い人らしいから、調べが済みしだい帰して上げなさい、と言ったそうです。
「翁先生は走るのも、速かったのですね」と、お尋ねすると「わしが走ったら砂埃が見えるだけだよ」と言われた。


■蒙古に行った一行の中に「盛平さんと一緒なら何時でも死ねる」と言っていた人と翁先生の二人が沼地に落ちた時、翁先生を跳退けて独り助かろうとした。「人間の間は頼りにならない、人にならないと駄目だ、○岡と言う人は世界に一人しかいない、自己を鍛練し自己を知る事だ」と仰った。  翁先生を一言にいえば、大哲学者であった。

■終戦後先生が病で倒れた時、「天女が私に火を吹き付けていた。過去に何かあったのかとおもいつつ、行こうとすると、一人の僧が出てきて帰れと言われた。お顔を拝見と言うとまだ早い、まだ修養が足りないと申された。」
それから病も回復に向かい合氣神社に参拝しようと思い参道を行くと白いもう一人の植芝が木刀をもって立っている。打って行くと打たれた。又打つと打たれた。今度は構えているとぱっと消えた。其のとき「松、竹、梅」の剣法を会得した。これが翁先生が武産合気の命名の由来だと申されました。


「翁先生の様な力が出るようになるのですか」とお尋ねすると「昔は力の技であったが今は力は不要じゃ歩けば倒れる」と言って肩に指を乗せられて倒され、其れから私は力の要らない合氣道に打ち込み翁先生の道文を研究日夜練磨し「和すなわち0」の氣で受ける法を会得できました。

               

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