私の宝
                 
合氣道開祖植芝盛平翁先生は合氣は宇宙の法則の原点であるとよく申された。そして、その法則を技に現しながら指導して下さいました。

始めは言霊の訳が解らず、解らぬままに、翁先生の素晴らしい技を身体で覚えようと、一生懸命でした。幸い翁先生が三年余り和歌山に滞在して下さって、色々の言霊の言葉で教えて下さったが、理解出来なかった。
翁先生が東京の本部に帰られる前 私に「師範稽古をしてあげるから、朝五時に来なさい」と申された。
朝稽古を一週間翁先生の素晴らしい眼光の前で震え乍ら稽古を受け終わると「わしの宝を上げたよ、品物なら返して貰えるが今日まで教えた法則は返して貰えない。今後貴方は道場での稽古は滝に打たれて修行して居るのと同じだ、生命のある限り稽古を続けなさい」と言って下さいました。

東京に帰られてからも、関西へ、お立寄りになった時は元寺町の和歌山支部道場の尾高氏宅に泊まられ、稽古を付けて下さいました。
昭和三十九年尾高氏が病に倒れ帰らぬ人となり、稽古ができなくなりました。昭和四十年私宅に道場を新築、道場開きに翁先生が来て大禊して戴きました。
翌日和歌山駅へお見送りして駅で一緒に写真を写したのが翁先生との最後になりました。

昭和四十四年四月二十六日翁先生御昇天の訃報を告知され、私は目の前が真っ暗になり合氣道を辞めようかと、迷っていた時、会員から来年翁先生の追悼演武を致しましょうと言われ、翁先生に万分の一でも御礼しなければと思い、昭和四十五年四月和歌山県故大橋知事、故宇治田市長、多数の来賓又道主吉祥丸先生をお迎えして和歌山市市民会館で盛大に行いました。

帰ってきて翁先生の写真の前に座りお顔を見ていると、ふと、師範稽古をして戴いた翁先生のお言葉を思い出し、法則を研究しようと思い立ち稽古をしていました。

何か先生の書物が欲しいと思っていた時、昭和四十九年二月号合氣道新聞に翁先生の道文が載っていました。此れだと思って何回も読み先生に教えられた技に当て嵌めて研究しました。

昭和五十一年、道主に武産合氣の本を戴き参考にしながら道文を訳し技に結び付けながら夜遅くまで先生の写真の前に座って研究し稽古していると、一霊四魂三元八力が私なりに解けて来ました。
解けてきた法則で導くと面白い程動かせる様になりました。翁先生は「技は余興である技を楽しみながら自己を磨き、宇宙の法則と同化し和合の精神で守っていく事である」と申されました。

私は、技は余興であるという翁先生の真意を大切にしたいと思っています。最近合氣道を学んだ人の中に、何々流合氣道というのが出てきました。型と形ちが違うにすぎないのです。 翁先生が生存していたなれば、腹を抱えてお笑いになるかも知れません。
合氣道は形や技ではない。翁先生の「言霊」を説かれている和合の根源を知る事であります。それは「和、無、0」より出てくる呼吸が合氣道であります。

翁先生は何時も「合氣道の技は倒しに行くのでは無い、歩けば相手が勝手に倒れるのじゃ。さあ来なさい」と言われ、近寄った途端に、ふっ飛ばされました。 
仮にそれが出来たとしても、翁先生から見れば当たり前の事であって、流儀名を付けるのがおかしいのです。合氣道を修養する人は、元(理念)を忘れては合氣道の道を修養した人とは言えないのです。

               

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