(武産居士遺稿)
兵役時代の思い出

私は武道の稽古の中で水谷先生に整骨と指圧の治療法を学んでいましたので、門人達に懇願されるまま治療等を施すことがありました。

昭和十八年四月(1943年)教育召集で入営数日後、班長に下士官室に呼ばれ「お前は付き合っている女性がいないと言ったが、これは誰だ」と一通の手紙を見せた。それはピンクの封筒でした。班長は手紙を開封して読みましたが、私が入隊前に治療をしてあげた方からのお礼の手紙でした。

「お前は武道をやるのか」と質問されたので、合気道の説明を致しました。

この話を聞いていた見習士官が「消灯前に来て教えろ」と命じられ消灯前の軍隊のしごきの受難を回避できました。

三か月の教育召集も無事終了し帰宅。昭和二十年三度目の召集で外地に着いて間も無く医務室に呼ばれ、軍医が「寝ている兵士に痛み止めを二本打ったが止まらない。お前治療してみてくれ」と言われました。二十分ほど治療していると痛みが止まり、軍医は明日からは医務室勤務をするよう連帯本部に報告しておくからと言って、私は医務室勤務になりました。

間も無く終戦を迎え一週間後帰国できると思っていたところ、光州に飛行場建設要員の命令が出て、帰国できなくなりました。その時大隊副官の治療をしていましたので、明日からはこられないとお断りに行ったら、それは困ると言って連隊に高岡は重要人物なので替えていただきたいと言ってくれました。

昭和二十年(1945年)十月十五日緑の山容が懐かしい日本山陰仙崎の港に着き、復員帰郷の急行列車に乗り、目を覚ませば天王寺駅でした。

南海電車に乗り和歌山市駅に着いた時懐かしい和歌山市は焼け野原でした。

我が家の焼け跡を見ようと思いながら行くと、無残にも鉄類の品物が焼け爛れた姿で残っていました。

俄に家族のことが気になり田舎の叔父を訪ねると家族は皆無事でした。

顧みれば早く無事に帰宅できたのも武道のお陰だと感謝しています。

               

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